上田浩之のインドネシア奮闘記ブログ

インドネシア スラウェシ島 バンタエン という周りに日本人がいない地で生徒17人への自動車専門技術、ソフトスキルの教育を行い日本でも通用する自動車エンジニアに育つまでを綴ったブログ

振り返ると、自分の好奇心に振り回されていた事に気づいた


今はめちゃくちゃ静かな所に来てて、夜の8時にはシーンってなって、パソコンを打つ「カツカツ」音だけが鳴り響いてます。
今までを振り返るには最高の環境なので、今までを振り返って、今年に繋げたいと思います
 
その前に私は伊予中学校出身なんですが、18年前くらいに校庭に埋めたタイムカプセルを、今月掘り起こすみたいです。
久々に中学校の友達に会えると思ったけど、インドネシアにいるのでいけないけど、何を書いたか覚えています。といいたいとこですが、小学校の卒業文集と記憶がごっちゃになってはっきり覚えてない。
何書いてたのかめっちゃ気になります。
中学校の友達とは中学校卒業してからほとんど会ってなくて、成人式も参加しませんでした。
専門学校に入る前に、ヤンキーの彼女に手を出して(女が二股を変えていて、僕が後の方だった)6人くらいにリンチされた事があり、翌日病院いったら、頭蓋骨陥没してますね。と言われた事もありました。
そして、それでやめてたら良かったけど、またちょっかいを出してしまい、またヤンキー達に追われてたので、一時期家に帰らずに車で生活してた事もありました。
そのまますぐに、専門学校に入学して、目もパンパンで白目が全部真っ赤の状態で行ったもんなんで、みんなやばいの来たみたいな感じになって、しばらく友達ができない事もありました。
その余韻で成人式もやばいそうだと勝手に思って、愛媛に帰省せずに神戸に留まりました。
 
たぶん、その辺りからちょっと自分おかしいのかなとか思い始めました
そのおかしいというのは、好奇心が人より異常にあるみたいです
 
会社に入ってからは、時間に余裕がある時期がありました。
その時、「金持ち父さん、ビンボー父さん」っていう本を読んでてその中の文で、お金とは本当はないものって言葉があったので、じゃ、実際お金をもらわず働いたら何が得れるのだろうかと、もの凄い好奇心にが発生しました
近くに日本料理のお店がありました。そこに行って仕事終わりに働かせて下さい!とお願いしました。
その店長に一つ条件があります。っと条件を伝えました。
「給料はいりません」
店長は、君は料理人になりたいのか!?
料理の道を進むから、修行という事で給料いらないのかと思ったみたいですが、それも違います
「お金なしで働いたら、なにを得る事ができるのかを知りたいんです」
そんなやつは初めてだ!明日から来て下さい。
という事で翌日から、無休で働く事に。お金を頂いてないので、ただの手伝いです。
仕事終わりに毎日23:00まで仕事の繰り返しでした。
働く前は、お金に変えがたい経験が出来たとか、接客業はお金だけじゃないとか、色々と経験する事ができるのかと思っていましたが、約4ヶ月無休で働いた後で思った事は
自分の時間が欲しい
という事を思いました。
後は、こんな話すネタが出来た事くらいなものです
 
こんな話しもあります
 
20代前半の頃、仕事をしながらもやりたい事が見つからず、その中でもがいていた時期があり、そこで決めた事が2つあります。
誘いは断らない
興味がある事は全部する
という事を目標に自分なりに前に進みました
そこで、知り合いがマッサージのお店をするからと誘って頂いた事がありました。
マッサージなんてした事もないので、タイ式のマッサージの勉強をする為に、タイに行き一週間ほどマッサージの学校に入りタイ式マッサージの勉強をしました。
そこまでやって、友達のお店を手伝ったのですが、やりながらなんでこんな事をしているのだろうか。マッサージするの全然面白くないし
っと思いやめた事もあります。
そんなこんなで、興味がある事を片っ端からした結果、借金が300万くらいになってしまって、クレジットカードも8枚程作り、その中でお金を借りて他のカードへの支払いをする、しかも最悪なので、そんだけいろんな所で借りてて、お金を回していたら、借金を返しても返しても、年利12パーセントとかで借りているので、全然減っていかないという事に気づき終わりのないローン地獄ローテーションの罠にまんまとはまってしいました。
 
さすがにこれはやばいと気づき、すべてを地方銀行一本にまとめて、コツコツと返す段取りが出来て、今までの止められた好奇心の代償があまりにもでかすぎた事に少し反省をしつつ、全てを断ち切り、会社一筋に頑張ろうと決めたのでした。
整備士として働きながらも、営業にとても興味があり会社の尊敬する当時役員の方に、直接営業になりたいんです!!と伝えた事がありました。
そしたら、
営業はいつでもなろうと思えばなれるのだから、サービスをまずは極めなさい!!
と言われました
普通はそれでも営業になりたいと言って、頑固に押し通す事もできるのでしょうけど、自分の20年そこそこの経験で判断するよりも、とてもたくさんの経験をしてきた、その信頼をある役員の言う事を聞いた方がどう考えてもいいと、判断して、それではサービスを極めます!と言いました。
まさにお言葉と、その時の判断が私の人生のターニングポイントだったのではないかと思います
極めるという事は、まずは、自動車の検定の1級をとるという事です。
そこから、1級の取得を目指しました。
毎朝4:30には起きて、自動車の勉強をしました
その結果もあって、6ヶ月後には1級の資格をとる事が出来ました。
そして、インドネシアに技術指導にいけるけど、行ってみないかという話しを頂きました。
ただ、条件として1級の資格がある事
そうして、6年前初めてインドネシアの土地を踏みました
言葉も喋れずに、6ヶ月間
喋れなさすぎて、初めは20才そこそこの新人エンジニアに、INI INI(これっていう意味)ていうあだ名をつけられて、ムカつく経験もしましたし、店舗の工場長には日本からのエンジニアなんだからといって、2ヶ月3ヶ月も直らない車の修理をしたり、しかも修理書は全部インドネシア語で、そんなのも直せないのかといびられたり、お店にいったらどこに行っても言葉のせいで爆笑されるし。友達との中では、カフェ行って5時間全然いよる事がわからないまま愛想笑いをするので、ほっぺたがいつも筋肉痛になったりしました。
そんな経験をしながら、たまりに貯めた借金も少しずつ少なくなってきました。
今の嫁さんには、当時はまだお付き合いしていて、僕が6ヶ月間インドネシアにいる間も待っていてくれて、インドネシアから帰って借金がなくなったら告白しようと決めていました。
確か、12月31日だったと思います。
やっぱり自分はアホやと思うのが、言いたい事が我慢が出来ずにいついつ告白するからと、とプロポーズの宣言をしました。
しかも、僕は未来の事はいつもいつも考えるのですが、過ぎた事を思い出すのが、本当に苦手で、例えば先週なにしたかとか、去年何をしたかとか、そういうのがマジですぐ忘れてしまいます。
 
そんなこんなで、普通の人とは感覚が違う所がちょこちょこあって、自分を乗りこなす事が大変ですが、少しずつ出来て来ました。
 
25歳くらいに
「ただの整備士から、世界で活躍できる人間になる」
という目標を立てました
8年前にたてた目標は今も一切ぶれていなく、まさしくそれに向かって走れています。
そして、まだまだ過程の状態です。
 
たくさんの方々にアドバイスを頂いたり、このような活躍できるチャンスを頂いたり、そして、その与えられたチャンスの中で精一杯頑張っている自分もいたり
それは今までの、アホみたいな経験がきっとどこかで上手い事、歯車の一つになって噛み合っているのだと思います。いやきっとそうに違いない
 
これからも自分の目標に向かって、楽しみながら走って行きたいと思います。
 
そして最後に
 
新年あけましておめでとうございます。
昨年は本当にお世話になりました。
今年もどうぞよろしくお願いします。