上田浩之のインドネシア奮闘記ブログ

インドネシア スラウェシ島 バンタエン という周りに日本人がいない地で生徒17人への自動車専門技術、ソフトスキルの教育を行い日本でも通用する自動車エンジニアに育つまでを綴ったブログ

インドネシアのお母さん


一昨日、とても大事な人が亡くなりました。
 
私がインドネシアのお母さんと慕っている方でした。
5年前に初めてインドネシアのマカッサルに来ました。
そのお母さんは、私が住んでいた部屋の隣に家族で住んでいました
そのお母さんとの思い出はたくさんあります
 
当時はまだ言葉がほとんど話せない私に、インドネシア語を教えてくれました
断食の時には、毎朝3時にサフールというご飯を、お母さんの家族と一緒に食べたり
ベチャという、乗り物に二人でぎゅうぎゅう詰めで乗って、市場に買い物に行ったり
私が部屋に帰ってた時には、勝手に部屋に入って私のベッドで寝ていたり
 
5年前にお別れする時には、お互いに涙を流しながらまたいつか会おうね!って言って別れました
そして、去年私がインドネシアに戻って来た時には、久々に会った親子のように迎えてくれたり
自分の家やと思っていつでも泊まりにおいでと言ってくれたり
 
2、3週間前にお母さんの娘から、お母さんが入院していると連絡が入ったので、マカッサルに行った際に病院にお見舞いに行きました
その時は膝が悪くて歩けないという事でした
2、3日入院して様子を見れば問題ないという事だったので、退院したらまた家にお邪魔するねって言ってお別れした所でした
 
一昨日の夜に娘から連絡が入りました
 
お母さんがICUに入って意識がないの
 
そして、翌日の朝に、他界したとの連絡がありました
 
原因は、自宅でこけた際に強く頭を打って、脳を損傷したそうです
 
その日の夕方に埋葬するという事なので、最後のお別れをしようと急いでマカッサルにいきました
到着した時には、すでに埋葬された後だったのですが、お墓の前で今までの事を思い出しました
 
涙が止まりませんでした
 
お母さんの子供には、お母さんが悲しむから泣かないでって言われましたが、涙が止まりませんでした
 
お母さんが、先日この家の庭に日本の野菜を植えたいの
って、嬉しそうに言っていた事や
 
私は、お母さん家族からは5年前から、おちゃんって呼ばれていたのですが
おちゃんが来た時には、ご飯作るからいつでも来てねって言ってくれた事
 
お母さんと一緒に笑えない事を考えると、さらに悲しい気持ちになります
 
享年64歳です
 
お母さんの死を身近に感じて、命の儚さを知りました
人間必ず死を迎えますが、どのタイミングでそれが来るかはわかりません
 
一日一日、私達は確実に死に近づいています
 
その限りある命をどのように使うのか、誰の為に使うのか
 
 
今を生きる事の大切さを考えながら、前に進んでいきたいと思います。
 
 
今まで実の子供のように接してくれて、本当にありがとうございます
 
安らかにお眠り下さい